平成24年度 小論文

 「絆」
                                        石川航海
 僕には、僕が生まれて、一度も会ったことのない家族がいます。それは、
二才半で病気で亡くなった、二番目の子供で長女になる姉です。僕は三
番目の子供で、姉の一周忌の一ヶ月前に生まれました。
 母が言っていましたが、姉はずっと元気だったのに、突然、病気になり、
それからたった十日ほどで亡くなってしまったので、あまりにも突然すぎて、
心に大きな穴が、ポッカリと開いてしまって、今から、何をどうしたらいい
のかわからなくなってしまったそうです。毎日、泣いていたそうです。でも、
その時に、心のささえになってくれたのは、父、祖父母、兄、友達、そして、
元気に生まれてきた僕だったそうです。それまで、母は、どこに出かけて
も、子供を連れて、楽しそうに、買い物をしたり、笑ったりしてる人を見る
のがとても、つらかったと言っていました。僕が生まれてきてから、自分
にも、ちゃんと一緒に笑える家族がいるんだ。ささえてくれる人がいるん
だと思って、頑張って生きていこうと思ったそうです。僕は、その言葉を聞
いて、決して、人間は、一人では生きていけないんだ。家族、友達と、ささ
え合って、助け合って生きて行くものなんだな、と思いました。

 僕は、小学校四年生から、高校三年生の9年間、野球をしてきました。楽
しかった事もいっぱいあったけれど、つらい練習や、試合に出れなかった
事や、腰や足が痛く病院に通った事がありました。そんな時、家族が心配
してくれたり、声を掛けてくれたりしたことや、野球仲間で励まし合ってきた
ことで、つらさや、折れそうな気持ちを、乗りこえてこれたんだと思います。
学校での野球は、終わってしまったけれど、僕は、今、小学校の時、世話
になった少年野球チームの練習の手伝いに行っています。卒業して社会
人になっても、ずっと野球は続けていきたいと思っています。僕に、我慢す
ることを教えてくれた、野球は絶対にやめずに続けていきたいと思ってい
ます。野球というスポーツは、9人そろわないと試合に出る事はできません。
ピッチャー・キャッチャー・内野手・外野手・そして、ランナーコーチ・ベンチ
にも仲間がいます。一緒につらい練習を乗りこえてきた仲間との強い絆が
あるから、連携プレーが出来て、アウトにすることが出来ます。打つときも、
ランナーコーチの指示があるから、点を入れることが出来ます。みんなつ
ながっています。

 僕は、あと何ヶ月かしたら社会人になります。僕の夢は、消防士になるこ
とです。たった二才半で亡くなった姉みたいな子供がいなくなるように、悲し
む親がいなくなるようにと思って、その仕事をしたいと思っていましたが、日
本で起きた大きな災害や、最近、僕の住んでいた大雨の災害のニュース
を見て、消防士になって、たくさんの人を助け、地域の為に仕事をしたいと
いう気持ちが、どんどん強くなってきました。

 いろいろな絆で結ばれている人たちが、幸せになれるように、頑張りたい
と思っています。






「いのち」
                                        吉富 英奈
 東日本大震災で失われただくさんの「いのち」がある。生きたくても生きら
れなかったたくさんの「いのち」がある。また、自らの命を自分で絶ってしま
う「いのち」がある。どれも同じ「いのち」である。

 果たして「いのち」に対する私達の向かい合い方とはどのようなものだろう
か。確かに「いのち」と一括りに言ってしまうと尊いものであるという考え方が
ほとんどだろう。辞書には、「もっとも大切なもの」「生命の生きてゆく原動力
」と書かれている。しかし、私達はそんな大切で尊い命を毎日のように食し
ている。ペットの犬や猫が死んでしまったとき私達は涙を流して悲しむが、
焼肉屋やすし屋に行って涙を流す人を私は見たことがない。私も泣いたこ
とはない。
 私は、年を重ねるにつれて命の尊さを考え、感じることが少なくなっている。
幼い頃は、毎食、「いただきます」「ごちそうさま」を言っていた。食べられるこ
とが私の中であたり前となっている。

 しかし、東日本大震災では全てを津波で流され、食べるものもなく、何にも
なくなってしまっていた。また、失われなくていい命がたくさんなくなった。あ
の日、私の中で命というものがどういうものなのか、改めて考えさせられた。
自分と同じ年齢の子が津波で亡くなっていた。その子には、大きな夢があっ
た。今までの努力の積み重ねでその子の夢は叶えられる夢だった。私はと
いうと、その子のような夢はない。夢はあるが、しっかりとした未来設計がで
きていない。そんな私が生きていてその子が亡くなってしまった。そのことを
聞いたとき、すごく悲しかった。また、そんな中でも自殺者は三万人を越えて
いる。生きたくても生きられなかった人がたくさんいる中で、自ら命を絶つ人
も少なくないのが現状である。学生に多いのはいじめだろう。自ら命を絶た
ねばならないほど、追いつめられたこととはなんだろうかと考えてみた。やは
り、いじめというからには、ものすごく残酷であっただろう。しかし、テレビドラ
マのようないじめだとしたら、教師が気付くのではないだろうか。誰もいじめ
られている子を助けることはできなかったのか。私は不思議でたまらない。
また、その子が一言でも助けを求めれば、きっと誰かが手を差しのべてくれ
たのではないかとも思う。それでも、自らの命を絶つ理由が見つからない。
私達は、頭では、「いのち」というものが尊いもの、大切なものだとわかって
いる。しかし、「いのち」の存在があまりに身近にあり、当たり前すぎて最近
は、「いのち」がどのようなものかわかっていない。

 このようなことから、私達は「いのち」と向き合う際には、自分の「いのち」が
あるということがあたり前ではないことを念頭において向き合っていくべきだ
と考える。また生きたくても生きられないいのちが今でもあること、あったこと
を知っておいてほしい。






「いのち」
                                        平川 みどり
 最近、よくニュースで中高生がいじめが原因で自殺したことを聞く。なぜ、こ
のような自殺が増加してしまったのだろうか。

 いじめは、今も昔も完全に無くなることはないだろう。どんなに平和な世にな
ろうとも、人間の心には少なからず憎しみや悪の気持ちがあると思う。さらに
中学や高校などの思春期の人が集まる場所では、仕方のない面もある。社会
人のなかでもいじめやいやがらせがある中で中高生のいじめが消えることは、
なおさらないであろう。

 自殺が日本で増加してしまった原因は単なるいじめの増加ではなく、周囲の
環境に問題があると考える。一つは、近所同士や町内などの交流が昔に比
べて減少したことにある。私の親が幼い頃の話によると、昔は近所同士ほと
んどが知り合いで、幼い子どもが家で一人になるような時は、近所の人に預
けていた人が多くいたそうだ。今もそんな人たちがいるかもしれないが、あま
り聞かない。そして、近所や町内の人がお互いに関心をもっていて、情報を
交換したり、悩みを相談したりをしていたようだ。このような環境ではもしいじ
めが起こっても、誰かが異変に気づき、支えることができると思う。それに、支
えてくれる人がいるとわかれば、学校でも辛いことがあっても、耐えることが
でき、自殺までには至らないだろう。自分の居場所があれば、安心できるし
強くなれると思う。つまり、いじめが起こっても、周囲の支えがあれば自殺に
至る中高生は増加しないということだ。

 二つめは、携帯電話やインターネットの普及にあると考える。現在ではほと
んどの中高生が自分の携帯電話を持っている。便利で助かることが多いが、
いじめの原因となる可能性もある。それは掲示板やメールでの悪口だ。直接
会って話しをしているときは、いい雰囲気であるのに、裏では人の悪口をばら
まいている人がいる。インターネット上の掲示板では、書き込みをした人が特
定できないため、普段その相手に対して言えない悪口を書いても誰にもばれ
ない。それを利用して、相手を傷つけるような言葉を平気で買い込む人がい
るのだ。悪口を書かれた人がそれを見れば、直接悪口を言われた時よりも大
きなショックをうけるだろう。それが続けば、自殺につながることもある。さらに、
そうしたネット上でのいじめは周囲に気づかれにくいため、防止することも難し
いだろう。

 いじめによる自殺は難しい問題である。しかし、いじめられても自殺に至る
前に思いとどまって欲しいと思う。「命が大切」ということは誰もがわかってい
ることだが、その大切さを直接感じることが大切だと思う。私がそう感じたのは、
近所の生まれたばかりの赤ちゃんを見たときだ。周りの人がすごく幸せそうな
顔をしていて、一つの命がこんなにも廻りに影響を与えていることが感じられ
た。それに、私自身も赤ちゃんの笑顔を見てうれしかった。逆に考えれば、自
殺して一つの命が失われれば、周囲にどんな悪影響を及ぼすだろうとも思っ
た。命は自分一人のものではないと思えば、自殺をすることはなくなると思う。






「かなえたい夢からかなえる夢へ」
                                        小野 ちひろ
 私には、調理師になり、調理現場で働くという夢があります。これは、かなえ
たい夢ではありません。かなえる夢なのです。しかし、私のこの夢も最初は、
かなえたい夢でした。ところが、中学一年生の冬の出来事をきっかけにかな
えたい夢から、かなえる夢へと変化しました。

 実は、一年生の冬に、私の祖父が緊急入院することになりました。それから、
我が家の生活も大きく変化していきました。私の家では、牛を飼っています。
祖父が入院してから、父と母はこれまでやっていた仕事と祖父がしていた牛
の世話や農作業も両立することになり、祖母や母が忙しい時は、私が夕食作
りを担当することになりました。それまでは母に、「料理をすることは生きてい
く中で、絶対に必要だから。」と言われ、近くの公民館で、村おこしやコミュニ
ケーションを、たくさんとることを目的に、小学校四年から大人までを対象とし
た、料理教室に通っていました。そこでは、数人の大人と小学生が二十人前
後で、いくつかの班に分かれ、和食や洋食、郷土料理などのいろいろな料理
を作りました。その時、友達や大人とたくさんの話をして、すごく楽しく料理す
ることができました。その中で、料理をすることが好きになったものの、少しの
手伝いしかしていませんでした。しかしその時から、母や祖母に頼まれた時は、
私が夕食作りをすることになり、作っている時にふと、祖父が、私に言ってい
た言葉を思い出しました。

 「お前が作った料理はおいしい。それを家族全員で食べるならなおさらおい
しい。」とにこにこした笑顔で、夕食の時に言っていたことを思い出し、私は涙
がでそうなくらいうれしくなりました。こんなことが起こるまでは、母や祖母が夕
食を作って自分はすこし手伝いをするだけというのが普通だったけれど、それ
が普通だったけれど、それが普通じゃなくなり、普通と思っていたことがどれだ
け幸せだったかを感じることもできました。それまでは、ぼんやりと調理師にな
って調理現場で働きたいと思っていました。でも、その時から、「大人になった
ら、絶対調理師になって働くんだ。」という夢に変わりました。それからは、積
極的に料理をするようになりました。

 そして今私は、目標としていた昭和学園の調理科に入学することができまし
た。入学当初は、自分のお店を出すという夢がありました。しかし、入学して一
年が経ち、その夢もまた少しずつ変化していきました。今は、病院食を作る仕
事に就きたいという夢に変わりました。でも最初の夢であった調理現場で働く
という夢は、今も変わっていません。

 来年には、進路を決定しなくてはいけません。できれば、進学をして栄養士
の資格をとり、病院で働き、きっかけをくれた祖父に恩返しをしたいです。患
者さんみんなが食べて笑顔になれておいしいと言ってもらえるような食事を作
りたいです。来年の今頃には、胸を張って自分が進む進路が言えるように今
しっかり考えようと思います。親の理解を得るためにもうすこし話し合いなが
ら、残りの高校生活を充実させ、もっと調理技術をみがいて立派な調理師に
なれるように、がんばりたいです。

 祖父の病気から、普通と思っていたことの幸せやたくさんのことを学びました。
かなえたい夢からかなえる夢えと変えるきっかけをくれた祖父には、すごく感謝
しています。祖父は倒れては約三年半たった今も、意識がありません。私はま
た家族全員で、自分が作った料理を食べ、祖父にもまたあの笑顔で食べてもら
える日がくることを信じ、これからもいつも心の中で、祖父が言っていた言葉を
胸に刻みつけながらがんばっていきます。






「ロンに教えてもらったこと」
                                           島田 信
 あまりにも唐突な出来事だった。帰りのバスの中で、姉からのメールを開い
た瞬間、僕の中の大切なものが、遠くへ行ってしまった。

 僕が生まれてすぐ、僕の家に犬がやってきた。兄が友人から譲ってもらって
きた新たな家族は『ロン』と名付けられた。僕は、その記憶は全くと言っていい
ほどない。だからロンは、僕の記憶に常にいてくれた。ロンは幼いときから温
厚で人なつっこい性格だった。近所の人達からもかわいがられ、郵便配達に
来る職員の人は、いつもロンに犬用のクッキーをやってくれていた。人を決し
て噛むことなく、誰に対しても、近寄って来て甘える姿は、みんなから愛される
理由でもあった。そんなロンは、とても散歩が好きでリードを見せたとたんに跳
びはねて喜んでいた。散歩中も、いつもの温厚さとはうって変わって、早足で
歩き、いつもリードはぴんっと張りきっていた。散歩から家に帰ると、何よりも
先に水を大量に飲んで日陰で涼んでいた。その疲れきって寝ている様子は、
まるでぬいぐるみのようだった。

 小学三年生になり、僕は、毎日夕方にロンと散歩する担当になった。僕は一
日でロンとの散歩が一番の楽しみであり、その一日、学校で嫌なことがあって
も、ロンと散歩をするとすべて吹き飛んでしまった。ロンはいつも楽しそうに散歩
のコースを歩いていた。時には遠回りをしたこともあったが、ロンは常にリード
が張っている状態からゆるんだ状態にしようとはしなかった。常に前のみを見
つめて、歩き続けていたのである。

 中学生になり、部活に参加するようになると、ロンとの散歩もすっかりなくな
ってしまっていた。他の家族のメンバーも、多忙の中、ロンとの散歩はできな
い状況になっていた。そうしてロンは、大好きな散歩に行けない日々が続いて
いた。そうしてロンは、少しずつ老化を起こしていった。
 僕は高校生になった。ロンは、もう目が見えなくなっている様だった。夏場に
は、無数のダニが発生し、次第に、ロンの毛もカサカサになり、たまに行く散歩
でも、貧血を起こして倒れるようになった。筋肉もだんだんとおちていき、冬に
なると夜の寒さと細い腕で立ち上がる痛みから夜鳴きをするようになった。僕
たち兄弟は、ロンを病院へ連れて行った。ロンには注射が打たれ、薬が投与
された。それから僕たちは、ロンを家の玄関に入れ、ストーブと毛布を使って
可能な限りロンを温めた。その甲斐あってか、ロンは少しずつ元気をとりもど
した。
 長い冬をなんとか耐えて僕らはロンが明らかに老化していることを気づかさ
れた。名前を呼んでも反応することなく、自分の小屋も分かっていないようだっ
た。鼻も衰え、目の前にあるものが何かを判断できずに、一人でご飯を食べる
こともできなくなってしまっていた。僕らは必死の思いで一食一食ご飯を食べ
させた。
 初夏になり、またロンにダニが発生してきた。僕らはダニ予防の薬をロンに
塗った。薬はとてもよく効いてダニはほとんどみられなくなった。

 しかし、その日はやってきてしまった。九州北部を襲った大雨も過ぎ去り、
快晴の空となった七月十日、日向と日陰もわからない状態になっていたロン
は、きびしい日射しを受け、熱中症になり、十六年という長いいのちを生き
尽くした。僕らはロンを庭に埋葬し、涙を流しながら手を合わせた。

 それから、家の庭は一気に寂しくなった。いつもいたはずの家族の一員は、
いつもいるようでいないのである。僕らは小屋をのぞくたびに、何か悲しくな
るのである。

 しかし、下ばかり向いてもしかたないのである。ロンが僕らに残した事、それ
はたくさんの思い出である。そしてぼくらはロンから、前だけを見て進んでいく
ことを学んだ。ロンがそのいのちをかけて伝えたいことは、僕たちの胸に深く
刻み込まれている。たとえ今はこの世にいなくとも、ロンは、僕たちの永遠の
家族なのである。僕はこれからの人生を、ロンと過ごした日々を胸につき進ん
でいきたい。それがロンに対する一番の恩返しになるのであると思う。
 ロン、生まれてきてくれてありがとう。一生懸命に生きてくれてありがとう。