どうして日蓮聖人は本堂の真ん中に座っていらっしゃるのか?
ある方が他のホームページでそのことはおかしいのではないかと言わ
れているので、私なりの解釈を述べたいと思います。

 お寺の本堂では日蓮聖人の書かれたお曼荼羅を仏像でおまつりする形
(勧請「カンジョウ」するという)をとります。
 聖人の認(したた)められた大曼荼羅は十界のお曼荼羅と呼ばれ、仏法
僧の三宝も表わしています。
 中心は法の妙法蓮華経です。南無妙法蓮華経の文字のみ、光を表わす
ひげ文字で書かれます。そのひげ文字を光明点と言います。仏は十世界
で表します。両脇に、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏のそ
れぞれの世界を現すために代表者を配しています。僧(伽)は日蓮聖人で
表わします。

 私たちが礼拝する対象を考えた時、神或いは仏乃至真言の曼荼羅等
聖なるものを安置するのが普通です。イスラムのように偶像は安置しな
いと言う教えもありますが、私に言わせればあの壮大で綺麗な礼拝堂が
神の行いそのものをこの世に現したいという信者の願いであり、偶像だ
と思います。(基本的にキリスト教も神は安置しません)
 
 日蓮聖人のお曼荼羅は常識的に外れています。しかし、そこにこそ聖人
の優れた智性・霊性があるのではないか、と思います。聖なるものに対す
る賞賛や讃仰は当たり前で、誰でもします。しかし、地獄や餓鬼、畜生に
代表されるあってはならないものを礼拝の対象に配した方があった
か?と考えると答えはノーです。
教義にはあっても、です。十界それぞ
れがそのままで仏の世界を内包しているとも言われています。今はやりの
「あなたはそのままで、良いのだ。何か他のものにならねばならない、と言
うことは無い」を絵式の文字にするとあのお曼荼羅になります。

 私は、日蓮聖人は人界の代表つまり私たちの代表としてあの場所にどっ
かと座られているのだと思っています。イダイケ夫人が悩める凡夫を代表
してお釈迦様に「何故私は親殺しの子を持たねばならないのか?」と悩ま
れて、浄土を求めた。それが浄土教の原点であるように、日蓮聖人は私の
代わりに
あそこに座っておられるのです。法華経の教えで言えば、この経を
広める菩薩として促された者たちとでも言うのでしょうか。

 日蓮聖人は生前何を礼拝されていたかというと、(伊豆伊東の海中出現
の)「立像のお釈迦様」だと言われています。そのお釈迦様の前に法華経
を置かれてご供養されていたようです。
 ではなぜ、日蓮聖人は曼荼羅をお書きになられて弟子や檀信徒に与え
られたのか?
 まず第1に(浄土) 法華経の世界観が理解できること。
 第2に(成仏) 目で見て全体像が理解できること。
 第3に法華経を広め伝える使命の自覚を促すこと。
 第4にお金がかからないように。仏像だとお金がかる。他にもあるかもし
れませんが。ご自分が偉いのだとか、まして仏であるからと言う理由では
ないと思います。もしそうであるならば、お釈迦様と対を成す多宝如来の
座にでもしつらえられたことでしょう、もっと高い位置に。

 在家では紙幅のお曼荼羅を勧請することがほとんどですが、お寺の本堂
ではお曼荼羅を仏像という形で表わします。そうすると、一番目立つ位置に
日蓮聖人がきます。ですから、冒頭のなぜ真ん中に日蓮聖人が?という疑問
になるのだと思いますが、以上私見を述べてみました。

《追記》 

★ お釈迦様はお釈迦様を礼拝されたでしょうか?
★ 仏法僧を敬われたのではないでしょうか?
 
 なかでも、生きとし生けるものたち、法華経で言えば衆生《「広度諸衆生 
其数無有量」(序品第一)「毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就
仏身」(寿量品第十六)》をして仏知見の道に入らしめんと欲して伝道された
のではないでしょうか。仏のみを勧請することのほうがおかしい、と気がつ
かれたのは日蓮聖人だけであった・・・と思います。

 いづれにしても、そう言われても「日蓮聖人は嫌いだ、真ん中にいるのを
見たくない」と言ってしまえばそれまでです。
 そして、今の日蓮宗がその遺志を継いでいるかどうか、は聖人の心持とは
別の次元で論じられなければならないことは勿論だと思います。