「家族の絆」               今村早希   

 「いってきます。」

私は大きな声で言った。

 私の家族は九人家族です。父と母、祖母、父の義伯母、
姉、妹二人、弟の九人です。父は昔に言う田舎の本家の
跡取り息子です。五年前に一人暮らしが困難になった義
伯母も引き取りました。大家族で育った私はプライベート
な空間のない我が家が嫌でした。お盆、お正月は親戚や
お客様が沢山来るし、手伝いもしなければいけないので
億劫でした。食事も取り合いの様にして何を食べている
のか分からないし、洗う茶碗も山のよう、たたむ洗濯も
山のよう、ゆっくりくつろいで・・なんて遠い話です。


 そんな我が家の長老、祖母は野菜作りの達人でした。
家族の健康を考えて作る無農薬の野菜は決してスーパー
に並ぶ野菜の様にピカピカできれいではないけれど、イ
ガイガのついたキュウリもキズのついたトマトもみずみ
ずしくてとっても美味しかったです。祖母は私が小さい
頃からよくかわいがってくれました。散歩に連れて行っ
てくれたり、祖父母学級に来てくれたりしました。裁縫
の上手だった祖母は浴衣や洋服も縫ってくれました。そ
んなやさしい祖母に五年前から少し変化が起こりました。
物をなくしたり、ひとり言が多くなったり、一日に三度
以上食事したり、夜中徘徊したり、おもらししたりする
様になりました。診断は認知症です。家族は皆驚きました。

 祖母は体は元気なのですが、行動が以前とは全く違い
ます。私達は戸惑いながら祖母の後をついていくように
見守る日々が続きました。初めの頃は祖母自身も認知症
を否定し、近所の人にも知られない様と思っていました
が、症状がどんどんひどくなり、家族だけでは問題を解
決していくのが難しくなりました。近所の人も協力して
くれました。祖母を見かけ連れて来てくれたり電話で教
えてくれたりしました。家の中でも祖母一人では留守出
来ません。誰かがついていないといけません。みんなで
協力して見守りました。介護認定は受けていましたが祖
母が強く拒みデイケア等には行きませんでした。食事も
見守り、お風呂も母が中心に母が留守の時は交代で入り
ました。以前より難聴がひどくなった祖母とはジェスチ
ャーとスケッチブックに書いた言葉でのやり取りです。

そんな生活に慣れるまでは毎日みんなが不眠症になる位
疲れました。途中、祖母を施設に預けたらという話も出
ましたが、父が「こんな時だから皆で力を合わせよう。
今まで世話になったばあちゃんへの恩返しだ。大家族だ
からみんなできっと乗り越えられる。」と言い、みんな
が協力して介護することになりました。

 あれから五年の年月が経ちました。今では孫の私達の
ことはほとんど分かりません。祖母の穏やかな笑顔を見
ながらみんなで「ばあちゃん幸せよね。」と話していま
す。戸惑いながら時には衝突しながら私たちは沢山のこ
とを学びました。老いていくこと、TVや新聞でしか知
らなかった認知症のこと、そして家族の力強さ、あたた
かさを知りました。

 その頃、妹がとてもよい曲があるからみんなで聴こう
とあるビデオを見ました。流れてきた曲はアンジェラア
キの「手紙」でした。聴き終わった後みんな涙を流して
いました。きっと家族の一人一人がそれぞれ毎日を大切
にしっかり頑張っているから涙が出るのだと思いました。

 新年になり、毎年恒例で皆座って新年のあいさつをし
て、おせちを食べ終えた頃、母が今年の抱負も含め一年
後の自分自身に手紙を書こうと皆に伝えました。「大賛
成」とそれぞれ自分で用意した便せんに思い思いに書き
ました。私は一年後の自分へ悔いのない毎日が送れてい
るか、進路はどうなっているのかなどびっしりと書きま
した。みんなの手紙を大きな封筒に入れて封をしました。
父が表に“一年後の自分へー家族の皆が健康であります
ように。父”と筆で書きました。

 手紙を書いたことを忘れる位あっという間に一年が過
ぎました。祖母の認知症は大分進行しましたが、よく食
べて元気です。大晦日、みんなで年越しそばを食べた後、
父から一人一人手紙を渡されました。一人一人読んでい
ます。私も一年間を振り返って手紙を読み、涙がこぼれ
ました。毎日を大切に過ごせたか
.一年間を思い、込み上
げるものがありました。みんなの前で読める人は読みま
した。それぞれの思いを聞き、また涙が出ました。一つ
一つの節目を大切にしながら毎日を過ごしていく家族を
すばらしいと思いました。この家に生まれてきてよかっ
たと思いました。

 

 

「命の大切さ」                    山田真由美


 私はテレビや新聞、携帯電話でニュースをチェックし
ます。俳優や女優、スポーツ選手の活躍が目立つ中で、
最近は悪いニュースも多く入ってきます。さまざまな内
容の中で私が最も注目しているニュースは児童虐待です。
人はなぜそのような行為ができるのか。とても残念に思
います。

 携帯電話でニュースをチェックしている時に、一つの
ニュースがありました。自分の子どもに熱湯をかけて重
度のやけどをおわせたニュースです。私にはとても信じ
られないものでした。自分が産んだ子どもに対して、愛
情をそそぐことは当たり前だと私は思ったからです。虐
待をする親達は自分の欲求を満たすために子どもを痛め
つけているのでしょうか。このやけどをした子どもは命
は助かったものの、やけどのあとと心の傷はおそらく一
生消えることはないでしょう。他にも暴行され、心とか
らだに傷をおった子、外に放り出され何をどうしてよい
のかわからない子、何も食べる物を与えられずに飢えに
苦しんでいる子。この世の中から虐待という言葉がいつ
消えるのでしょうか。私は今まで生きてきた中で、親に
怒られたことは何度もあります。しかし、それがイコー
ル虐待につながる行為は一度もありませんでした。だか
らここまで成長することができたと思います。もちろん
生活をする中でやってはいけないこと、許されないこと
もありましたが、自由に生活することができ、食べ物に
困ることもなく、自分の進みたい道へ進ませてくれました。

 若し自分が親になった時、私は子どもを育てることが
できるのでしょうか。必要なことは、親になるための資
格というものよりも、親としての自覚を持つことの方が
私は大切だと思います。子どもに対して虐待をする親は
親としての自覚がない、あるいは足りないから、同じこ
とを何度も何度もくり返してしまうのでしょう。親とし
ての自覚を持ち、責任を持った行動をすれば、この世の
中から虐待という言葉は減っていくと思います。

 不思議に思うことは、虐待を受けた子どものほとんど
は親から離れることを考えません。とてつもなくきつく
てつらいことがあっても親元を離れられません。頼るべ
き人がいないからというのもありますが、一番はたった
一人の母親、父親だからだと思います。自分を産んでく
れた母親。家族を守るために必死に働く父親。私が同じ
状況であったとしたら私は家を出ることはできないと思
います。

 人間は必ずしも平等ではないところがあります。家が
あり、家族がいて、やりたいことをやれる幸せな人間が
います。家族を失い、居場所がなく、毎日を不安定に生
きざるを得ない人がいます。不平等だと私は思います。
しかし共通点はあります。それは共に生きているという
ことです。人間は誰もが同じように命を持っています。
そんな中で、人間がみんな平等に自由で幸せな時間を過
ごすことはできないかもしれません。しかし、誰もが平
等に生きるということは一番大切なことだと私は思いま
す。私たちは一つの命を持って生きているということを
認識すべきだと思います。

 

 

「命について」                      島崎 陸

 ある日、僕はテレビをつけると、そこには幼い一人の
少年がいた。カメラを向けられると彼はにっこりと笑う。
彼は「将来は医者になって母の病気を治し、家族みんな
で豊かに暮らしたい。」と言った。彼は勉強がしたいけ
ど、家族のために一日中働かなければならず、学校にも
行けない。

 それに対し、僕らの中には、勉強を投げ出したり、人
生を投げ出してしまう人がいる。

最近では、「死ね」という言葉が飛びかうようになって
きている。

 僕らは何かを忘れかけている。命を軽く思っているの
ではないだろうか。

 世界には貧困や飢えに苦しみ生きたくても生きられな
い人たちがたくさんいる。そんな中、僕が生きる日本で
は自殺する人たちが数多くいる。人は生きていればいつ
かは必ず死ぬ。しかし、「なぜ自分は生きているのだろ
うか。」と考え、たくさんの疑問や矛盾をさがし、試行
錯誤することは決してムダにはならないと思う。

命について考えると、赤ちゃんを抱っこしたときに温
かさや重さを感じたり、青春を楽しんだり、家族の死を
悲しんだりと、私たちは命を感じて、安心したり、喜ん
だり、悲しんだりする。やっぱり命は重たいもので、大
切にしなければならないと思う。命を軽く考えてはいけ
ない。軽い気持ちで人に対して「死ね」という言葉を使
ってはいけないし、言葉は大事にしなければならない。

「命」には「絶対にこうだ。」という答えを決めつけ
ることはできないが、たしかなことは、「ひとつの生き
物にひとつしかない。」ということだ。ひとつひとつの
命は何百万年も前からかかわり合い、支え合って、新し
い命を生み出し、つながってきた。僕の命も大昔からず
っとつながってきた。未来のことは何もわからないけれ
ど、僕も命を未来へつなげていかなければいけないと思
っている。

僕には一つ大きな夢がある。それは、「罪のない命が
消えていく現状をどうにかしてくい止めたい。」という
ことだ。先進国が国の発展や、植民地支配を行なってき
たせいで、今の世界には貧富の差が生まれてしまったの
だと思っている。

今、僕にできることは何だろうか。悲しんだり、悔し
んだりすることしかできない。きっと何かできることは
あるはずなんだけど思いつかない。僕は今17才で大人
でもあり、まだまだ子供でもある。これから生きていく
うえで、今の現状を変えられる日がきっとやってくると
信じている。今の気持ちのままで生きていって夢がかな
えられるとうれしい。

最後に、僕は「自分が死んだらどうなるんだろう。」
と思う。死というのが全くわからない。天国や地獄はあ
るのか、それとも死んだら無になるのか、それは死んで
みないとわからないことなのだが、ついつい考えてしま
う。

生きるということはとても大変なことだと思うし、と
てもすばらしいことだとも思う。僕らはすごく低い確率
で生まれ、生きている。生まれたことに感謝し、今を全
力で生きぬくことが、命を大切にすることだと思う。  

 

 

「三つの絆」                        石井香苗

 私は、自分が体験した三つの絆について書きたいと思
います。

 なぜならば、人との絆を持つことで、たくさんの人々
に支えられながら、今まで生きてきたので、絆とはとて
もすばらしいものだと感じたからです。

 一つ目の絆は、友人との絆についてです。 

 私は、中学校に進学すると同時にここ日田に引っ越し
てきました。最初は、とても不安で友人もあまりできま
せんでした。そんな時に小学校の頃の友人と話していると、

 「大丈夫、香苗ちゃんならどこでもやって

  行けるって!」

と言われました。その時、とても心強くて、友人がいる
ということは本当に幸せなことなんだなぁ。と感じました。

 もしも、その時私に友人がいなかったならば、私は今
も、人と関わることが苦手だったかもしれないと思って
います。

 この友人とは、今も連絡を取り合っていて何でも話す
ことができる大切な存在です。そして、これから先もず
っと絆を深めていこうと思っています。 

 二つ目の絆は、部活の仲間との絆についてです。

 私は、中学の頃はバドミントン部に所属していました。
私は弱かったので、大会ではいつも応援する側でした。
どんなに負けてしまいそうな試合の時でも、仲間の応援
で勝つこともありました。これも仲間との絆の力である
と感じました。

 また、現在私は高校で音楽部(合唱)に所属しています。
私は、一年生の十月からと入部するのが遅かったのですが、
先輩方や同級生の助けによって、音を外しやすかった私も
入部当初に比べて、とても上達することができました。先
輩方には、時々厳しいことを言われることもありますが、
それによって部活内での絆も深まって行っているような気
がします。 

 しかし、私が一番部活内での絆を感じたことは、二年生
に進級し、後輩も入部した今年の八月一日に行なわれた九
州合唱コンクール大分県予選での出来事です。練習が不十
分で不安の残る中、悔いの残らないように楽しんで歌うこ
とをみんなで誓い、ステージに立ちました。その結果、例
年より一つ順位を上げ二位で九州大会に進むことができま
した。この時私は、今までに感じたことのないほどの嬉し
さを感じ、私が覚えている限りでは、初めて嬉しさで涙が
出てきました。それは、部活内での絆が深くなってきて、
みんなの気持ちが一つになっていたからだと思っています。
九州大会は九月十日に行なわれるので、その時にも、みん
なで気持ちを一つにして、悔いの残らないように楽しんで
歌いたいと思います。


 三つ目の絆は、家族との絆についてです。

私の家族は、祖父、祖母、父、母、中学二年生の弟、小
学二年生の妹そして私の七人です。家族内でけんかをして
しまうこともありますが、家族は私にとって一番大切なも
のです。祖父母はとてもやさしく、たくさんのことを教え
てくれます。父も厳しいですが、とてもおもしろくたくさ
んのことを教えてくれます。母は私にとって、何でも話す
ことができて、家族の中で一番信頼できる人です。弟と妹
は、私を慕ってくれ、いつも

「今日は何をしたと?」

と聞くと、

 「あんね、姉ちゃん、今日はね・・。」

とたくさんのことを話してくれます。

 私の祖父は、病気と惚けで少し介護が必要な状態になっ
ています。

 だから、私たち家族は祖父の介護をして行く中で、より
一層家族の絆を深めることができていると思います。

 その証拠に、祖父の介護が始まる前は、家族と過ごした
り、話したりすることがとても少なかったけれど、祖父の
介護を通して家族が一つになったと思います。

 人は、必ず何かしらの絆を一つは持っている生き物だと
私は思います。それは逆に、人は絆が無かったら生きて行
くのは厳しいのではないかと思います。もし、仮に生きて
行けたとしても、私だったら人とのつながりが無いと、辛
くて耐えることができないかもしれないなぁと思います。

 私は、「絆」について書きながら、人とのつながりは、
やはり大切なものであり、無くてはならないものであると
感じました。

 これからも、人とのつながりを大切にしてたくさんの人
と色々な「絆」を築き上げて行きたいと思います

 

 

 「一生の絆」                      宮崎ありす

 私は、正直言って、絆って何だろうと疑問に思う時期が
ありました。 

 私は、中学一年生のときから部活に入っていて、卓球部
に所属しています。中学生のときは、部員が多く、試合の
団体戦では、顧問の先生がレギュラーを選んでいました。
私は、そのレギュラーの中に入り、6人で力を合わせ、一
人一人が練習に励みました。プレーが上手くいかないとき
は自主トレーニングをやっている人ばかりだったと思いま
す。中学生のときはそうやって、みんなのことを考えなが
ら絆というものがありました。日田市内の大会では、団体
戦で優勝し、個人戦でも上位に入る子が多かったです。部
員同士の関係や一人一人の気持ちが合わなかったりと上手
くいくことばかりではなかったけど、確かに、絆はあった
と私は思います。

 二年前の三月に中学校を卒業し、希望はもちろんあった
けど、不安もたくさんありました。私は、中学校を卒業す
るときに、進路をぎりぎりまで悩んでいました。卓球が大
好きなので、もっと卓球が強くなりたくて、県で上位に入
る学校に行きたいと思っていました。親や友達に相談し、
夜も眠れないくらい考えました。その結果、私は行こうと
決断しました。辛いことがあっても、苦しいことがあって
も絶対に頑張ろうと心に決めました。

 私の中学生のときの目標は、卓球で県上位に入ることで
した。その高校で目標を達成することはできませんでした。

 環境や目標が距離を伸ばして離れていってしまいました。
目標は夢に変わりました。 

 自分の人生を自分で決めることは、とても苦しく、そし
てとても切ないものなんだと学びました。

 私は、昭和学園に入学し部活は卓球部に入部しました。
入学当初は大会で優勝したり県大会にも出場することがで
き、目標も高くなっていきました。途中で、私以外の部員
みんなが部活をやめてしまい、苦しんだこともありました。
だけど、卓球をやめようと思ったことはありません。私に
は卓球をしていたから出来た友達や今までやってきたこと
に対するいろんな思いがあったからです。部員は、一人に
なってしまったけど、たくさんの支えがありました。他校
の卓球部やクラブチームの先生、友達です。17年間生き
てきて思ったことのない気持ちがありました。感謝しても
しきれない程の支えで私を見守ってくれました。人との絆
は、終わりがなくとてもきれいなものだと感じました。誰
かの笑顔で元気になったりすることがなかった私が小さな
ことに幸せを感じることができるようになりました。そし
て、そばにいてくれる友達や家族のありがたさを卓球を通
して学びました。辛いことがあったからこそ、皆の心の暖
かさに気づけることができ、考え方や見方を変えることが
できました。私に関わる全ての人との絆は一生ものです。